お大師様と龍体山

お大師様と龍体山の関わりについて

弘法大師空海様(お大師様)

弘法大師空海様は宝亀五年六月十五日に讃岐の国多摩郡弘田郷屏風浦善通寺近くで出生し、
幼名を真魚という。十八歳で大学に入学し役人養成儒教中心教育を退き、仏教こそ象生救済の教道との教えを発信する。
延暦二十三年、三十一歳のおり、「遣唐使」に加えられ肥前の国田浦を出航、福建省の海口に上陸。
その後、長安に到着。西明寺に入る。

翌年、青龍寺塔頭院恵果阿闍梨の密教を東国へ広めよとの言葉通り、大同元年翌年に九州博多港に帰国するも入京の許可なく太宰府の観世音寺に滞在。延暦二十三年八百四年に唐の国へ渡る。
航海安全祈願のため、添田町の彦山や豊前の求菩是山において祈願、護摩焚をしたと伝えられる。
又、太宰府観世音寺に滞在中、再び彦山求菩是山へお礼の参詣をしたと伝え聞く。

起源をさかのぼると、龍体山は彦山の裏行場であり、明治の廃仏毀釈まで神仏習合と本地垂迹説が確立された時代に多くの山伏達が豊前坊から日田へ通い、大変栄えた。
龍体山にある案内板には豊前坊の方角が記され、年に一度日田から数多くの青年の代表が彦山の豊前坊へお札を頂きに、また祈願に行っていたのではと予測される。

その後、日田市内の多くの心ある方々が石仏を山に安置し、八十八ヶ所霊場の原型を今に残す。
思うに、お大師様は帰国後、上京するまでの二年間、日田・玖珠・田川・豊前を精力的に布教活動をしたと思われる。
この地、山を訪れたであろう。又、多くの修験者との交流があったであろう。
その歴史ある山岳仏教の様子を残す、龍体山霊場に第一番礼所総祈願所が龍原寺である。

龍源寺の風景

  • 大師堂入口

  • 大師堂の看板

  • お堂にはお大師様が祀られている

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